それからどんな会話があったのかサガは覚えていない。
 気がつけば教皇と別れ、どこへともなく足を進めていた。
(力を……血で伝える……)
 サガのすべてがそのことにとらわれている。
(教皇の選んだ娘を……アイオロスが抱く……)
 思考は正常な組み立てをなさなかった。
(あの広い胸で……長い腕で……温かく包んで……)
 小さな手。滴る血。押し当てた唇。
”お前が好きだ。お前が欲しい”
(アイオロスが……)
 噛み砕かれた肉。青菜。握っていたフォーク。支えた椅子。
”お前が好きだよ”
(あの声が……あの舌が……あの唇がわたし以外の名を……)
”お前は納得していない。何がアイオロスに劣ったというのか”
(……違う!)
”知りたいとは思うだろう?”
(思わぬ!!)
”では、逆を考えてみろ。お前が教皇で補佐がアイオロス。何ら不自然ではあるまい”
(わたしが……教皇?)
”それならば……アイオロスを手放さずに済むぞ。教皇の名において、好きなだけ傍に置くことが出来る”
(わたしは、アイオロスを束縛する気などない!)
”アイオロスに何ぴとたりとも……近づけずに済むのだ”
(わたしは……!)
”好きだ、サガ。お前が好きだ……”
(……)
”サガ……”
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 夜気に体をなぶられ、サガはふっと目を開けた。
 眠った覚えはない。しかし頭が鉛のように重い。立ち上がり、一歩踏み出してみる。
「うっ!?」
 慌てて足を退く。先は断崖だった。闇を吸い込み、底が見えない。
「一体、ここは……」
 記憶を辿るべく思いを巡らせ、その中で体を後ろに返した。
「……」
 そこには年代の重さを含んだ建物があった。目を細め、しばらくじっと凝らし見る。
 やがて、悲鳴のように叫んだ。
「ス…… スターヒル!!」
 その大きさに体が揺らいだ。
「馬鹿な!! 何故わたしがここに!!」
 激しい動揺。そして気づく。身に纏っているのは、法衣。
「こ……これは教皇の……------まさか……!」
 口にするさえ怯えるサガは、落とした視線で現実を見た。足元に老人の骸が転がっていた。
「う……」
 がくりと膝を落とす。臓物が引き絞られ、胃液が上がった。
”クク……”
 鮮やかに笑いが響く。
”すべての思いは叶った。万事巧くいった”
「貴……様……っ!!」
 サガは映らぬ影に怒りのありったけを叩きつけた。
「何ということを…… 何ということをしたのだお前は!!」
”ほう、これは心外だ。お前もさぞや喜ぶかと思ったが”
「教皇を殺めるなど、取り返しのつかぬ大罪だ!! そ、それを……」
”よく言う”
 声がしらじらと返した。
”他人事のように……言っておくがな、やったのはわたしではない。『わたしたち』だ”
「馬鹿を言うな! わたしは……」
”教皇を殺そうとなど、露ほども思っていなかった、か? そうでないことは結果が示している”
 足元へ視線が流れる。
”いくらわたしが願っても、お前が同意してくれねばことは成せぬ。我々は、ひとつなのだからな”
「嘘だ! そんな……」
”信じぬのは勝手。だが真実もまたひとつだ”
「……」
”そしてこれこそが、教皇に推挙されなかった理由……”
「え……?」
”そこの老いぼれは、お前の中のわたしに気づき、恐れた。更に言うなら、わたしと容易に与するお前自身を……恐れたのだ”
「……!」
 荘厳な口吻は教皇自身の言葉と聞きまごう。
 重く沈み、サガの内を深々とえぐった。
「わ……わたしを……!」
 サガは顔を覆ってうずくまった。
 叫びたかった。自らの声で自らの体を微塵に粉砕したかった。
 深い憤り、そして哀しみ。
 すべてが自分に向き、胸の中に張りつめていく。
 耐え難い痛みが満ちた。それをいやす術を、サガは知り得なかった。
 しばしあって。
 サガは力なく立ち上がった。そしてゆっくりと歩き始めた。
”どこへ行くつもりだ”
 声が言った。
「------裁きを受ける」
”裁きだと?”
「聖域に在る全ての聖闘士の前に膝を折り、事の次第を打ち明ける」
”は、愚かな。八つ裂きにされるのがおちだ”
「そうだ。むしろそれを望む。死して余りある罪を……わたしは犯したのだから……」
 サガははるか前方を見据えていた。
”行けるものなら行け。だがな……”
「止めさせはせぬ!!」
 凛と言い放った。
「これ以上お前の好きにはさせん!! わたしもろとも------お前を殺す!」
 その言葉に声は笑った。
”いいだろう。では、わたしは脅すとしよう。どうしても名乗り出ると言うなら、アイオロスを殺す”
「……何だと」
”お前の手で、アイオロスを殺させる”
「ば……馬鹿なことを」
 サガは虚ろに笑った。
「このわたしがアイオロスを殺すわけがないではないか。そんな願いを抱くはずが……」
”今殺してしまえば、アイオロスはお前のものだ”
 サガの背がびくりと揺れる。
”お前の姿を瞳に焼きつけ、お前の声を耳に残し、お前の温もりを抱いたままアイオロスは眠る。誰に触れることなく、ほかの誰に目を向けることもなく……”
「や……やめろ……」
 舐めずるように声は囁き続ける。
”誰に気を奪われることなく、誰を抱くこともない。お前を深く愛したまま……アイオロスはお前のものだ”
「やめてくれ!」
”永遠に……お前だけのものだ……”
「やめろ、聞きたくない! 聞きたくない!!」
 サガは息を荒げ髪をかき乱した。大きくのけぞり両目を剥く。
「嫌だ、アイオロス、アイオロス!!」
 美しい容貌は獣のそれに変じている。狂人にも等しかった。
”------だから、な?”
 乱れ続ける脳裏に声は言った。
”わたしに従え、ジェミニの聖闘士よ”
「あ……」
”ともに生きるのだ、教皇として。全聖闘士の頂点に立ち、この世に君臨しようではないか”
「……」
”『神のような』ではない。神となるのだ。サガよ、力を貸せ。その類い稀なる力を。世界は我々のものだ”
 いっそ快いほどに堂々と声は言い放った。
 聞くほどに。
 サガの呼吸は少しずつ落ち着いた。激情が、潮の引くように降りていく。
 やがて静かにサガは言った」
「……応じたならば」
”ん?”
「アイオロスには……手をかけぬか? わたしをも------止めてくれるか?」
 高らかな笑いがこだまする。
”いいだろう。万一お前が望んでも、わたしは望まずにいてやる”
 その答えを聞いて、サガはゆっくり頷いた。
”いいぞ。それでいいのだ”
 得々とした笑いは長く続いた。サガの心はそれを受けながら、別の思いを映し始めていた。

 夜は一番の深みへ向かっている。
 双児宮に戻り、サガはひとり闇を見つめていた。
 穏やかな顔つきだった。湖水のように静かで、整った容貌には毛ほどの乱れもない。
(聞こえぬな……)
 その内側に耳を澄ます。
(計れなかろう、いまのわたしは。無理もない。わたし自身に、いまだためらいが残っているのだから……)
 胸に手をやり、整えるように息を長くつく。
(だがわたしは貫く。成し遂げてみせよう。真のわたし……真のジェミニを消してはならない。わたしが、それを許すまい。------何としてでも……)
 外は満天の星。
 固めた決意を歩みに込めて、サガは宮をあとにした。
 行くのは通い慣れた路。足に馴染んで、ひどく懐かしい。
 いとおしむごとく一歩一歩を踏みしめて、サガは心つのらせる『目的』へと進んでいった。