石造りの路を、長い二つの影が行く。
 寝静まった周囲を気遣い音を殺す。だがその歩調は堂々と大きく、ピンと伸びた背筋に威厳を見る。位有るものならではの風格であった。
「では、ここで」
 影のひとつが立ち止まり、ふり返った。一分の隙もないほど整った顔立ちが月の光に輝く。
「ああ……」
 今ひとつが応じた。言葉は切れず、甘えたような笑顔に流れ込む。
「寄らせてくれないか」
「だめだ」
 すかさずの拒絶に笑みはしぼむ。見てとって、端正な造作が緩んだ。
「まだ二人とも酒が抜けていない」
 おだやかで、諭すような口調。言われた側には苦笑が浮かぶ。
「やれやれ。相変わらずかたいな、サガ」
「アイオロス」
 心細げな瞳がアイオロスを見た。
「あ、あ、そんな顔しないでくれよ。わかっているから」
 慌ててとりなせばサガはホッと凝視を解く。その手を取ってアイオロスは言った。
「今日はありがとう」
「アイオロス……」
「教皇に告げられた時よりも、お前に祝杯をと言われた時の方が、俺は嬉しかった」
 サガは嫣然と笑う。
「喜んでもらえてわたしも嬉しい。そう……嬉しいのはわたしのほうだ。全聖闘士を統括するのが君ならば、聖域は揺らがない。安んじて、わたしはわたしの誠を尽くすことが出来る」
「俺のために、と続くのか? その先」
 アイオロスは小首を傾げ、片目をつむった。サガは軽く睨む。
「はいはい、判っておりますよジェミニ殿。総ては平和のため、女神のためです」
 おどけた仕草と明るい声音。サガの表情は晴れない。
 ひと息置いてアイオロスはサガの肩に手を置き、唇を重ねた。
「すまん、しかしからかったのではない。そういうお前が好きなんだ」
「アイオロス……」
 サガはアイオロスの体をそっと押しやり、頷いた。
「この次は寄っていってくれ」
「ああ。しかし、その時は……」
 アイオロスは再び顔を寄せ、耳許に二言三言囁いた。途端にサガはみるみる頬を赤らめる。
「おやすみ。俺のジェミニ」
 笑いながら、アイオロスは先に続く道へ進んでいった。しばらくはぷいと顔をそらすサガだったが
「かなわんな……」
 呟きとともに目線を戻し、後ろ姿に手を振った。

 自分の宮へ入ると、サガは明かりを灯さぬままに奥の寝台に腰を下ろした。
 指でおのれの唇をなぞる。
 わずかに残るアイオロスのぬくもり。目を閉じ、寸を刻んでその感触を追っていく。
 やがてサガは辿った指にもう一本添え、唇に並べて押し当てた。
 口を開き、舌で指の間を割る。そのまま舌先を差し入れていく。
 舌の裏表それぞれで指をこすり濡らしていった。
 いつしかうっすらまぶたを開ける。秘やかな舌先の往復をくり返したのち、指のひとつに歯を立てた。
 歯には力をかけず、舌の中央を指に当てる。口は自然に開き指を包んだ。
 指が感じる口腔の温かさに時を過ごす。そして再び二本の指を揃え、口づける。
 放すとともに、サガはほうっと熱い息を吐き出した。
”------浅ましい奴”
 突然脳裏を声が斬る。サガはぎくりと目を上げた。
”あの男を拒んでおきながらその醜態は何だ? 見苦しい限りではないか”
「……お前……!」
 実体がないのは承知で、サガは闇に声を放った。
”体が疼いているくせに。あいつのたぎりが心底欲しかったくせに”
「でたらめを言うな! わたしとアイオロスは……」
”真の同志、契り固き盟友、か? お前の綺麗ごとは聞き飽きた”
「綺麗ごとではない」
”そう思いたいだけだ”
「……」
”欲しくてたまらぬと何故言わぬ? 片時も放したくないと何故すがらぬ。それほどに体面が大事か? 高潔にして慈悲深き聖闘士、ジェミニのサガ”
「……わたしはそのようなものにこだわっておらぬ」
”では疎まれ、背かれるのが怖いか”
「……」
”いつもだ。いつもお前は本心を偽る。今日のことにしてからがそうだ”
「何?」
”喜んでなどいない。嬉しくなどなかったのだ、お前は”
「それは違う。わたしはアイオロスの教皇任命を心から祝した。そんなアイオロスの友であることを誇りに思った。これは------本心だ!」
 言い切ったサガの内に、笑いが響く。
”いいだろう。一歩譲ってそれは認めるとしよう。だが、疑問はあったはずだ”
「疑問……だと?」
”何故アイオロスが選ばれ、自分は落とされたのか。何がアイオロスに劣ったというのか。何の説明もなかった以上、お前は納得していまい”
「徳高き教皇のご判断だ。疑問など、抱く自体畏れ多い」
”それでも、知りたいとは思うだろう?”
「……」
”よく考えるのだな、ジェミニのサガよ。本当の心から目をそむけ続けるにも限界があるぞ”
「何が言いたい」
”それを考えろと言っている。アイオロスのことも、教皇のことも……な”
 続く笑いは長く尾を引き、次第に消えていった。
 サガは腰を下ろしたまま背を寝台に倒す。両手が自らの顔を覆った。
「うとましい……」
 手の間から呟きが漏れる。
「私が何を偽っているというのだ……」
 吹っ切るようにひと息で体を起こし、脇の小机に置いた水差しをグラスに傾けた。