石造りの路を、長い二つの影が行く。  寝静まった周囲を気遣い音を殺す。だがその歩調は堂々と大きく、ピンと伸びた背筋に威厳を見る。位有るものならではの風格であった。 「では、ここで」  影のひとつが立ち止まり、ふり返った。一分の隙もないほど整った顔立ちが月の光に輝く。 「ああ……」  今ひとつが応じた。言葉は切れず、甘えたような笑顔に流れ込む。 「寄らせてくれないか」 「だめだ」  すかさずの拒絶に笑みはしぼむ。見てとって、端正な造作が緩んだ。 「まだ二人とも酒が抜けていない」  おだやかで、諭すような口調。言われた側には苦笑が浮かぶ。 「やれやれ。相変わらずかたいな、サガ」 「アイオロス」  心細げな瞳がアイオロスを見た。 「あ、あ、そんな顔しないでくれよ。わかっているから」  慌ててとりなせばサガはホッと凝視を解く。その手を取ってアイオロスは言った。 「今日はありがとう」 「アイオロス……」 「教皇に告げられた時よりも、お前に祝杯をと言われた時の方が、俺は嬉しかった」  サガは嫣然と笑う。 「喜んでもらえてわたしも嬉しい。そう……嬉しいのはわたしのほうだ。全聖闘士を統括するのが君ならば、聖域は揺らがない。安んじて、わたしはわたしの誠を尽くすことが出来る」 「俺のために、と続くのか? その先」  アイオロスは小首を傾げ、片目をつむった。サガは軽く睨む。 「はいはい、判っておりますよジェミニ殿。総ては平和のため、女神のためです」  おどけた仕草と明るい声音。サガの表情は晴れない。  ひと息置いてアイオロスはサガの肩に手を置き、唇を重ねた。 「すまん、しかしからかったのではない。そういうお前が好きなんだ」 「アイオロス……」  サガはアイオロスの体をそっと押しやり、頷いた。 「この次は寄っていってくれ」 「ああ。しかし、その時は……」  アイオロスは再び顔を寄せ、耳許に二言三言囁いた。途端にサガはみるみる頬を赤らめる。 「おやすみ。俺のジェミニ」  笑いながら、アイオロスは先に続く道へ進んでいった。しばらくはぷいと顔をそらすサガだったが 「かなわんな……」  呟きとともに目線を戻し、後ろ姿に手を振った。  自分の宮へ入ると、サガは明かりを灯さぬままに奥の寝台に腰を下ろした。  指でおのれの唇をなぞる。  わずかに残るアイオロスのぬくもり。目を閉じ、寸を刻んでその感触を追っていく。  やがてサガは辿った指にもう一本添え、唇に並べて押し当てた。  口を開き、舌で指の間を割る。そのまま舌先を差し入れていく。  舌の裏表それぞれで指をこすり濡らしていった。  いつしかうっすらまぶたを開ける。秘やかな舌先の往復をくり返したのち、指のひとつに歯を立てた。  歯には力をかけず、舌の中央を指に当てる。口は自然に開き指を包んだ。  指が感じる口腔の温かさに時を過ごす。そして再び二本の指を揃え、口づける。  放すとともに、サガはほうっと熱い息を吐き出した。 ”------浅ましい奴”  突然脳裏を声が斬る。サガはぎくりと目を上げた。 ”あの男を拒んでおきながらその醜態は何だ? 見苦しい限りではないか” 「……お前……!」  実体がないのは承知で、サガは闇に声を放った。 ”体が疼いているくせに。あいつのたぎりが心底欲しかったくせに” 「でたらめを言うな! わたしとアイオロスは……」 ”真の同志、契り固き盟友、か? お前の綺麗ごとは聞き飽きた” 「綺麗ごとではない」 ”そう思いたいだけだ” 「……」 ”欲しくてたまらぬと何故言わぬ? 片時も放したくないと何故すがらぬ。それほどに体面が大事か? 高潔にして慈悲深き聖闘士、ジェミニのサガ” 「……わたしはそのようなものにこだわっておらぬ」 ”では疎まれ、背かれるのが怖いか” 「……」 ”いつもだ。いつもお前は本心を偽る。今日のことにしてからがそうだ” 「何?」 ”喜んでなどいない。嬉しくなどなかったのだ、お前は” 「それは違う。わたしはアイオロスの教皇任命を心から祝した。そんなアイオロスの友であることを誇りに思った。これは------本心だ!」  言い切ったサガの内に、笑いが響く。 ”いいだろう。一歩譲ってそれは認めるとしよう。だが、疑問はあったはずだ” 「疑問……だと?」 ”何故アイオロスが選ばれ、自分は落とされたのか。何がアイオロスに劣ったというのか。何の説明もなかった以上、お前は納得していまい” 「解く高き教皇のご判断だ。疑問など、抱く自体畏れ多い」 ”それでも、知りたいとは思うだろう?” 「……」 ”よく考えるのだな、ジェミニのサガよ。本当の心から目をそむけ続けるにも限界があるぞ” 「何が言いたい」 ”それを考えろと言っている。アイオロスのことも、教皇のことも……な”  続く笑いは長く尾を引き、次第に消えていった。  サガは腰を下ろしたまま背を寝台に倒す。両手が自らの顔を覆った。 「うとましい……」  手の間から呟きが漏れる。 「私が何を偽っているというのだ……」  吹っ切るようにひと息で体を起こし、脇の小机に置いた水差しをグラスに傾けた。  翌朝はまばゆいまでの晴天だった。  サガが覚醒しきらぬ体で表に出てみれば、広場は高い歓声に満ちていた。  幼い六人の黄金聖闘士たち。聖衣を拝したとはいえ、じゃれ合い走り回る姿は普通の子供と変わらない。  その中心にアイオロスの姿があった。  儀式や非常時以外、彼はいつも軽装でいる。この時も同様で、惜しげもなく剥き出したたくましい腕で突進してくる子供たちを軽くあしらっている。  彼が動くたびにその発達した筋肉が躍動した。盛り上がり、波打ち、流れる。  長い指の大きな手。大きな拳。ひとつだけで楽々と子供を抱え、放り、また受け止める。 (あ……)  サガは不意に思い出した。アイオロスの長い腕に後ろから抱かれたことがあった。  サガは部屋着を纏っていた。アイオロスは全裸だった。  強い力で抱かれ、背中にアイオロスの厚い胸を、腕にアイオロスの腕を過ぎるほど感じた。  身体が熱かった。息が上がっていた。それでもアイオロスの力は緩まなかった。骨に至る力でサガを抱き続けた。 (好きだ、サガ。お前が欲しい)  言葉は耳許で告げられた。熱い吐息のようだった。身を固くしたサガの股間をアイオロスの大きな手が割っていた。  止めようとして力が入らなかった。重なる腰には脈打つアイオロス自身が触れていた。息が乱れ喘ぎに変わり、サガはアイオロスへくずおれた。 (好きだ、サガ。お前が好きだ……)  息とも声ともつかぬやわらかなささやき。耳朶を挟むアイオロスの唇------ 「------!」  突然の激しい泣き声に、サガの夢想は破られた。 「何だ、どうした?」  アイオロスは泣き声へ足早に向かっていた。 「……」  動悸が激しい。聞こえそうなほど高く打つ脈をサガは人知れず恥じ入る。それでも頬の熱さは鎮められない。  アイオロスの感触がまだ生々しく残っていた。 「シャカが木の裂け目に手を突っ込んだんだ」  子供の一人がはきはきと状況を告げる。 「俺と拳を合わせてて、俺が横によけたのに停まれなくってさ……」  もう一人が気まずそうに言う。傍らで少女のような細い貌がしゃくり上げていた。 「どれ、見せてみろ」  アイオロスはひざまずいてその手を取る。促して固く握ったままの拳を開かせた。 「ああ、たいした傷じゃない。そんなに泣くな、シャカ」 「わ、わたしは泣いてなど、いない!」  言い張るそばから紅色の頬に大粒の涙がこぼれる。 「そう、そうだな、バルゴのシャカはこれしきのことでは泣かないな」  そう言って笑いながら、アイオロスは診ていた拳に顔を寄せた。  サガは顔をこわばらせた。  透き通るほど白く小さなシャカの手に、アイオロスの唇が押し当てられる。  にじんでいた鮮血を吸い、そのまま傷口を舐めた。  サガは動けなかった。  指先さえ動かせず、棒立ちになっている。外すことの出来ない視線がアイオロスと子供たちに食い入った。  子供の華奢な手を伝うアイオロスの唇。這わせた舌。  幼いバルゴの聖闘士が受けている感触を思う。思うばかりでなく、その肌にありありと感じられた。 「う……」  動けぬ身体に震えがきて、サガは低く呻いた。 「------よし、これで大丈夫」  アイオロスは髪留めに着けていた布を外し、シャカの手に巻いた。 「とは思うが…… やっぱりちゃんと消毒してもらった方がいいな。えーと、ムウ、連れていってやれ」  頭を掻きながら立ち上がった時、彼はサガの姿に気づいた。 「やあ」  陽射しに負けない晴れやかな笑顔で走ってくる。サガは咄嗟に柱の陰に回った。 「早いな。見てたのか?」  隠れおおせるはずもなく、ほどなく体を寄せられる。 「あ、ああ……。アイオロス……」 「待った」  サガの後れを気づきもせず、アイオロスは顎を捉えて唇を重ねた。止まらない震えを気取られまいと、サガは身を固くして受けた。 「……熱心なことだな」  口を放されるや、サガは言う。 「いつだって熱心さ、お前には」 「違う!」  不必要に激しく否定して、サガは広場に視線を投げた。 「なんだ、あっちのことか」 「痴れ者め……」  アイオロスは高く笑う。サガは笑えなかった。 「あと何日かであいつらはそれぞれの修業地に旅立つ。一緒に訓練する時間は少しでも長くと思ってな」 「……あれが訓練か? わたしには遊戯に見えたが」 「? サガ?」 「そうだろう。第一君が付き添ってやる必要がどこにある。次期教皇の君が! 勝手にやらせておけばいいのだ。そうとも、自ら技を磨いてこそ……」 「サガ」  まくしたてる口をアイオロスの手が軽く覆った。暖かく、日だまりの匂いがした。 「どうしたんだサガ。何をむきになっている」  アイオロスは首を傾げてサガを見ている。明らかに案じているとわかる目に、サガはひとつ溜息をついた。 「すまん。何でもないのだ」 「……ならばいいが……」 「それより、わたしの所に来ないか。朝食を支度する」 「そいつはありがたい。ひと暴れして恐ろしく腹が減った」  その言葉にサガは微笑んだ。 「では、行こう」  先に立って歩き出す。その彼をアイオロスは後ろから抱きすくめた。 「ついでに食わせてくれると嬉しいんだがな。ジェミニの黄金聖闘士を」 「な……!」  サガはアイオロスの手を払いのけた。 「朝食だけだ!」  わめくなり大股でつき進む。アイオロスはくすっと笑い、あとに続いた。  自ら言うだけあってアイオロスの食欲は旺盛だった。  スープを三口で平らげすぐさま肉にかぶりつく。オリーブ油をふんだんに使ったそれをひどく喜び、褒める言葉ももどかしく頬張る。  パンにサラダ、干した果物。次々と手に取り、口に放り込んでいく。 「……」  サガはいつの間にか手を止め、アイオロスをじっと見ていた。  青菜がちぎりもせず押し込められ、白い歯で裂かれていく。唇のオリーブ油は舐め取られ、口の中に消えていく。  力強い咀嚼、忙しく動き続ける顎。包み込まれる野菜、肉、果物。  握られた銀のフォークは食器の上に休止することなくせっせとアイオロスに食べ物を運ぶ。その体温に温められたつややかな柄。  腰かける紫檀の椅子はなめらかな木肌で彼の重さを支える。密着した長い太腿、引き締まった臀部。  足をつけた床、その足を乗せた履き物、身体を包む服------ 「サガ」  呼ばれてびくっと目を上げた。 「何をさっきから羨ましそうに見てるんだ? 同じ物を食っているのに」 「あ……ああ」  サガは慌てて手を動かす。味は、わからなかった。 「ジェミニのサガ」  その午後。聖域内をそぞろに歩いていた彼は、覚えのある声に呼び止められた。 「これは教皇」  向き直ってしっかりと正対する。礼を取ろうとするのを、教皇は手で制した。 「何か変わったことはあるか」 「いえ……。本日も市井を回って参りましたが、これといって見受けられませんでした」 「そうか」  教皇は頷いた。 「頼りにしておるぞ、サガ。お前は慈しみ深く進んで救いの手を延べてくれると下々でも大変な人気だ。ましてその力は聖闘士随一だからな」 「……ならば何ゆえ……」 「ん?」 「あ、いえ。時に、アイオロスのことはいつ……」 「皆へのふれか? 来週早々にでもと思っている」 「そう……ですか」 「実はなサガよ。余はその折、粋なはからいをくれてやろうと思っておるのだ」 「と、おっしゃいますと」 「披露目を兼ねる」 「……披露目……!」  くり返した自分の言葉に息が止まった。 「その役目上聖闘士は正式な婚姻は結ばぬ。が、生来の力を血で伝えることは必要だ。それは、存じておろう」 「は、はい……」  胸の中が凍りついていく。 「幸い余の遠縁にふさわしい娘がいる。気だてが良く利発で明るい。何よりたいそう美しい子だ」 「それは……ようございました」  自らの言葉がうつろに響く。全身が空洞のように思えた。 「教皇として勤めるアイオロスの良き支えになるであろう。むろん、お前とは違った意味でな」 「……」 「いずれお前にも似合いの娘を娶せてやるが……ああ、この話、本人には内密にな。明かしたのはお前だけだ」 「光栄です……」  それからどんな会話があったのかサガは覚えていない。  気がつけば教皇と別れ、どこへともなく足を進めていた。 (力を……血で伝える……)  サガのすべてがそのことにとらわれている。 (教皇の選んだ娘を……アイオロスが抱く……)  思考は正常な組み立てをなさなかった。 (あの広い胸で……長い腕で……温かく包んで……)  小さな手。滴る血。押し当てた唇。 ”お前が好きだ。お前が欲しい” (アイオロスが……)  噛み砕かれた肉。青菜。握っていたフォーク。支えた椅子。 ”お前が好きだよ” (あの声が……あの舌が……あの唇がわたし以外の名を……) ”お前は納得していない。何がアイオロスに劣ったというのか” (……違う!) ”知りたいとは思うだろう?” (思わぬ!!) ”では、逆を考えてみろ。お前が教皇で補佐がアイオロス。何ら不自然ではあるまい” (わたしが……教皇?) ”それならば……アイオロスを手放さずに済むぞ。教皇の名において、好きなだけ傍に置くことが出来る” (わたしは、アイオロスを束縛する気などない!) ”アイオロスに何ぴとたりとも……近づけずに済むのだ” (わたしは……!) ”好きだ、サガ。お前が好きだ……” (……) ”サガ……”  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−……  夜気に体をなぶられ、サガはふっと目を開けた。  眠った覚えはない。しかし頭が鉛のように重い。立ち上がり、一歩踏み出してみる。 「うっ!?」  慌てて足を退く。先は断崖だった。闇を吸い込み、底が見えない。 「一体、ここは……」  記憶を辿るべく思いを巡らせ、その中で体を後ろに返した。 「……」  そこには年代の重さを含んだ建物があった。目を細め、しばらくじっと凝らし見る。  やがて、悲鳴のように叫んだ。 「ス…… スターヒル!!」  その大きさに体が揺らいだ。 「馬鹿な!! 何故わたしがここに!!」  激しい動揺。そして気づく。身に纏っているのは、法衣。 「こ……これは教皇の……------まさか……!」  口にするさえ怯えるサガは、落とした視線で現実を見た。足元に老人の骸が転がっていた。 「う……」  がくりと膝を落とす。臓物が引き絞られ、胃液が上がった。 ”クク……”  鮮やかに笑いが響く。 ”すべての思いは叶った。万事巧くいった” 「貴……様……っ!!」  サガは映らぬ影に怒りのありったけを叩きつけた。 「何ということを…… 何ということをしたのだお前は!!」 ”ほう、これは心外だ。お前もさぞや喜ぶかと思ったが” 「何を言う! 教皇を殺めるなど、取り返しのつかぬ大罪だ!! そ、それを……」 ”よく言う”  声がしらじらと返した。 ”他人事のように……言っておくがな、やったのはわたしではない。『わたしたち』だ” 「馬鹿を言うな! わたしは……」 ”教皇を殺そうとなど、露ほども思っていなかった、か? そうでないことは結果が示している”  足元へ視線が流れる。 ”いくらわたしが願っても、お前が同意してくれねばことは成せぬ。我々は、ひとつなのだからな” 「嘘だ! そんな……」 ”信じぬのは勝手。だが真実もまたひとつだ” 「……」 ”そしてこれこそが、教皇に推挙されなかった理由……” 「え……?」 ”そこの老いぼれは、お前の中のわたしに気づき、恐れた。更に言うなら、わたしと容易に与するお前自身を……恐れたのだ” 「……!」  荘厳な口吻は教皇自身の言葉と聞きまごう。  重く沈み、サガの内を深々とえぐった。 「わ……わたしを……!」  サガは顔を覆ってうずくまった。  叫びたかった。自らの声で自らの体を微塵に粉砕したかった。  深い憤り、そして哀しみ。  すべてが自分に向き、胸の中に張りつめていく。  耐え難い痛みが満ちた。それをいやす術を、サガは知り得なかった。  しばしあって。  サガは力なく立ち上がった。そしてゆっくりと歩き始めた。 ”どこへ行くつもりだ”  声が言った。 「------裁きを受ける」 ”裁きだと?” 「聖域に在る全ての聖闘士の前に膝を折り、事の次第を打ち明ける」 ”は、愚かな。八つ裂きにされるのがおちだ” 「そうだ。むしろそれを望む。死して余りある罪を……わたしは犯したのだから……」  サガははるか前方を見据えていた。 ”行けるものなら行け。だがな……” 「止めさせはせぬ!!」  凛と言い放った。 「これ以上お前の好きにはさせん!! わたしもろとも------お前を殺す!」  その言葉に声は笑った。 ”いいだろう。では、わたしは脅すとしよう。どうしても名乗り出ると言うなら、アイオロスを殺す” 「……何だと」 ”お前の手で、アイオロスを殺させる” 「ば……馬鹿なことを」  サガは虚ろに笑った。 「このわたしがアイオロスを殺すわけがないではないか。そんな願いを抱くはずが……」 ”今殺してしまえば、アイオロスはお前のものだ”  サガの背がびくりと揺れる。 ”お前の姿を瞳に焼きつけ、お前の声を耳に残し、お前の温もりを抱いたままアイオロスは眠る。誰に触れることなく、ほかの誰に目を向けることもなく……” 「や……やめろ……」  舐めずるように声は囁き続ける。 ”誰に気を奪われることなく、誰を抱くこともない。お前を深く愛したまま……アイオロスはお前だけのものとなる” 「やめてくれ!」 ”永遠にお前だけのものだ……” 「やめろ、聞きたくない! 聞きたくない!!」  サガは息を荒げ髪をかき乱した。大きくのけぞり両目を剥く。 「嫌だ、アイオロス、アイオロス!!」  美しい容貌は獣のそれに変じている。狂人にも等しかった。 ”------だから、な?”  乱れ続ける脳裏に声は言った。 ”わたしに従え、ジェミニの聖闘士よ” 「あ……」 ”ともに生きるのだ、教皇として。全聖闘士の頂点に立ち、この世に君臨しようではないか” 「……」 ”『神のような』ではない。神となるのだ。サガよ、力を貸せ。その類い稀なる力を。世界は我々のものだ”  いっそ快いほどに堂々と声は言い放った。  聞くほどに。  サガの呼吸は少しずつ落ち着いた。激情が、潮の引くように降りていく。  やがて静かにサガは言った」 「……応じたならば」 ”ん?” 「アイオロスには……手をかけぬか? わたしをも------止めてくれるか?」  高らかな笑いがこだまする。 ”いいだろう。万一お前が望んでも、わたしは望まずにいてやる”  その答えを聞いて、サガはゆっくり頷いた。 ”いいぞ。それでいいのだ”  得々とした笑いは長く続いた。サガの心はそれを受けながら、別の思いを映し始めていた。  夜は一番の深みへ向かっている。  双児宮に戻り、サガはひとり闇を見つめていた。  穏やかな顔つきだった。湖水のように静かで、整った容貌には毛ほどの乱れもない。 (聞こえぬな……)  その内側に耳を澄ます。 (計れなかろう、いまのわたしは。無理もない。わたし自身に、いまだためらいが残っているのだから……)  胸に手をやり、整えるように息を長くつく。 (だがわたしは貫く。成し遂げてみせよう。真のわたし……真のジェミニを消してはならない。わたしが、それを許すまい。------何としてでも……)  外は満天の星。  固めた決意ほ歩みに込めて、サガは宮をあとにした。  行くのは通い慣れた路。足に馴染んで、ひどく懐かしい。  いとおしむごとく一歩一歩を踏みしめて、サガは心つのらせる『目的』へと進んでいった。 「------サガ……」  アイオロスはまぶしげに顔をしかめる。熟睡のなごりをとどめていた。 「どうしたんだ、こんな時間に」  招き入れながら当然の問いを口にする。その語調に怒気はなかった。 「頼みがある」  アイオロスより先に奥へと入り、ふり向きざまにサガは言った。 「抱いて……欲しい」 「え……」 「わたしを抱いてくれ……アイオロス」  サガはまっすぐにアイオロスを見つめた。言葉の端で瞳が震える。 「今宵ひと夜……ひと夜だけでいい。何もかも忘れ、気狂うまでに君と……!」 「サガ……!」  アイオロスは驚き、少なからず動じた。 「何があったというんだ、サガ」  サガは首を振る。 「何も……」  アイオロスは納得しない。だがサガはそれ以上口にしようとしなかった。 「まあ……少し落ち着け」  小さな吐息のあと、アイオロスは言った。 「ワインでもやらないか? 飲みながら話を……」 「いらぬ!!」  サガははねつけた。 「何もいらない! 欲しいのは君だけだ!!」 「……サガ」 「一分でも、一秒でも長く……君に触れていたい。わたしに……触れていて欲しい……!」  サガはアイオロスに抱きついた。回した手に力をこめ、アイオロスへ食い込もうとでもするかに締めつける。 「好きだ……アイオロス」  アイオロスは戸惑った。なす術もわからず、ただサガを支えていた。  だがやがて彼はサガの力を解いた。そして 「わかった……」  その顔を両手に包み、唇を重ねた。  奥の間はアイオロスの匂いに満ちていた。  彼にすがったまま、サガは寝台へと倒れる。瞬間、衝撃を和らげようとするアイオロスの力を感じた。  たくましい長身が合わせられる。体の隅々までアイオロスの重さを受け止めた。サガは嬉しいと思った。叫びだしたいほどだった。  アイオロスの唇が頬から首に、そして胸へと這っていく。  無敵の拳が今は優しくサガの肌を撫でさする。  サガは体中でアイオロスを待った。全身がアイオロスを望んだ。  唇を、舌を、指を。髪の毛の一本でもよかった。自分に向かうアイオロスであるならば。  サガはわずかな感触もこぼすまいとすべての神経をアイオロスに向けて研ぎ澄ました。 「あ……っ」  サガは声を上げた。耳にしてアイオロスが顔をふり向ける。 「めずらしいな……」 「な……に?」 「いつもは……押さえ込んでしまうのに……」  サガは微笑した。 「今日だけは……」  今日からは、と言いたかった。  重なる股間でアイオロスの性が熱く脈打ち始めた。察してサガは体をずらす。 「そのまま……来てくれ」  枕許の油脂に手を伸ばしたアイオロスに言う。 「しかし」 「かまわぬ」  サガは促す。躊躇しながらもアイオロスはサガの脚を分け、中心に己を差し込んだ。 「ああっ!!」  途端に鋭い悲鳴が上がる。 「だから……!」  咎めるように言って、アイオロスは腰を退きかける。サガは手をかけ、それを止めた。 「気に……するな」 「痛いんだろう!? だったら……」 「いい……!!」  サガは断固として言った。その強さに押され、アイオロスは再び腰を進めた。 「あ、あうっ!! あ……っ」  切れ切れの声とともにサガの上体がびくびくとのたうつ。  無理矢理押し開いていのがアイオロスにもわかった。 「もっと……」  加減し、中ほどで止める彼にサガは言う。 「もっと奥へ…… 奥までいっぱいに……君で埋めてくれ……」 「馬鹿! 裂けてしまうぞ」  滑りをよくして行なった時さえ、サガがそこまで迎え入れたことはなかった。 「いいんだ」  しかしサガは首を振る。 「裂いてくれていい。奥の奥まで……君を感じたい……」  言い終えるや、自分から腰を突き上げた。 「うっ!」  アイオロスの方が声を上げた。強く挑まれ、彼の惑いは消えた。 「ああっ!!」  アイオロスの腰が速く、激しく動き始めた。小刻みに前後へ往復しながら、少しずつサガの内部を貫いていく。  揺さぶりにサガの体が弾み続ける。寝台がぎしぎしと軋んだ。  押し破られる痛みに気が遠のく。だがサガは自分を引き据え、それと正対した。  痛みはアイオロスがくれたもの。アイオロスが自分の中に在る証。だからまぎらしたくない。癒したくはない。サガにとってそれは『苦痛』ではなかった。  アイオロスが昇り詰め始めた。間隔を狭めた動きでも容易に察せられる。 「嫌だ……っ」  サガはアイオロスの背にぎりっと爪を立てた。 「! ……サガ……!」 「まだだ……! まだいかないでくれ!」  言いながら腰を浮かせ、さらに奥へアイオロスをくわえ込む。そしてきつく締めつけた。 「もっと深く……もっと強くわたしに食い込め……! 少しでも長く……わたしに居てくれ……!」  髪を乱し、腰を振る。汗が珠と散り、わずかな灯りに煌めく。 「放したくない……ずっと感じていたい……------アイオロス!!」 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−…………  いとなみが絶えたあとも、サガはアイオロスに体を寄せていた。  アイオロスの手が股間をまさぐっている。サガは目を細め、甘い刺激に酔った。 「いいのか?」 「何が……」 「お前……終わったあとここをいじるとひどく怒ったくせに。それどころかすぐ身なりを整えてしまって……」 「ああ……」  サガは笑った。 「わたしに還る時間が……ほしかったんだ。君といるわたしから、ひとりのわたしに戻るための時間が」 「妙なことにこだわるんだな」 「そう……」  こくりと頷く。 「わたしはずっとこだわっていた。いや、恐れていたのだ。ジェミニの黄金聖闘士たるわたしが…… 恵みを施し平和を進めるべき身が、君という一人の男しか見えなくなってしまうことを……」 「……で……今日はあえてその恐れに立ち向かってみたというわけか」  再び頷く。 「結果は? 何か困るようなことでもあったか?」  サガは首を振った。 「もっと早く……こうしていればよかった……」  その答えにアイオロスは笑い、回した腕でサガの肩を叩いた。 「そうだろう! まったく素直じゃなかったよなお前。手を焼かせてくれて!」  心底愉快そうな声は、耳に心地よかった。 (そう、もっと早くこうしていれば……わたしを君に……解き放っていたなら……) 「------安心していい」  頬に口づけをくれて、アイオロスは言う。 「お前が俺しか見えないなら、代わりに俺がその先を見る。お前の望みは俺の腕の中で言えばいい。お前を抱いたまま、俺がそれを叶える」 「……アイオロス……」 「だから心おきなく俺を見ていろ。お前が見つめてくれる限り、俺はお前を------放さない」 「……っ」  こみ上げた感情に、サガは声を詰まらせた。 「俺に全てを委ねろと言うんじゃない。二人の意志をひとつにするだけだ。お互いの夢を二人で一緒に叶えるんだ。ジェミニのサガとはそれが出来ると、俺は信じている」 「あ……」  サガはアイオロスの胸に顔を押しつけた。硬く温かい肌がサガの美しい相貌を覆った。 「泣くなよ……」  アイオロスは優しくサガの顔を上げる。涙の雫を指ですくい、唇を重ねた。 (アイオロス……)  深い口づけの中、サガは内なる思いを綴る。 (ありがとう……。これで君を……放すことが出来る……)  それは自分への、そしてアイオロスへの------聞かせてはならない語りかけだった。 (今日を限りにジェミニのサガは消える。サガを消し、教皇として生きるのだ。君とも……教皇の名において相対していくことだろう。  だがわたしは栄光を手にしたわけではない。  教皇の姿で、わたしは君を見つめる。見つめ続ける。  わたしが去ったのち、君は誰かに恋するかも知れない。誰かをその胸に抱くかも知れない。  今わたしが抱かれているその胸に。  それをわたしは見ていよう。  どれほど悔しく哀しく、心裂かれる思いであろうとも。  嘆き、泣き暮れる日々を過ごそうとも……  君の笑顔が誰に向けられ、君が誰の元に走ろうと、わたしはひと声も発することなく玉座に在り続けよう。  君が君である限り、そしてわたしがわたしである限りわたしの苦しみは続くだろう。哀しみは絶えぬだろう。  だがわたしは君を見続ける。見つめ続けて生きていく。  それがわたしの------償い切れぬ罪を犯したわたしへの……罰なのだから……)  アイオロスの手がサガの髪を撫でている。仰ぎ、自分に向けられる瞳をサガは静かに見返した。 「どうした」 「------いや……」  首を振り、アイオロスの肩へ頭をもたせかける。 「このまま……」 「ん……?」 「このまま時が……止まればいい……」  アイオロスはやわらかに笑った。 「馬鹿だな。時なんか止めなくても、俺たちはこのままだよ」 「……いつまでも……ずっと……?」 「ああ。この先もずっと、お前が好きだよ。サガ」  サガはかすむような笑顔を浮かべた。 「ありがとうアイオロス。わたしも君を……愛している」 (愛し続けるだろう……。いつまでも……)  空が少しずつ白み始める。 (そう…… 一生……------)  次の朝は、すぐそばにまで訪れていた。 END